前回に引き続き生死に関する話を、仏教的な考え方も織り交ぜながら記したい。
ある日突然、命があと1週間しかないと告げられたとしよう。
どうだろう、もちろんその運命にたじろぐだろうが、日々悩んでいることや苦しんでいることが、いくらか気楽にならないだろうか。
仕事のことで悩んでいるサラリーマンからは、「この先数十年生きることを想定して今の仕事の苦しみに耐えているのだから、1週間後に死ぬと分かって日々の苦しみから解放されるのは当たり前のことじゃないか」と反論を受けそうである。
しかし、これが1週間ではなく1ヶ月後なら、1年後なら、10年後なら、50年後ならと順に考えていくとどうだろうか、反論の内容は変わるだろうか、今の苦しみはどのように変化してくだろうか。
つい私たちは、「永遠に生きる」と思って日々を過ごしてしまう。「いつか死ぬ」ことを知識として知っているが実感としては分からない。「永遠に生きること」と「いつか死ぬこと」は月とスッポンほど違うのに、その違いを理解して日々意識することなく、漫然と生きていないだろうか。ほとんどの苦しみは、実はその勘違いから生まれているのではないだろうか。
「1週間後に死ぬこと」と「50年後に死ぬこと」は全然違うけれど、「永遠に生きること」と比べればどんぐりの背比べである。「永遠に生きる」と勘違いして生きているくらいなら、「1週間後に死ぬ」と勘違いして生きている方が、よっぽど現実的で、理に適っているのではないだろうか。
冒頭で書いたサラリーマンの反論は真っ当であるが、「1週間後に死ぬこと」を一度想定してみることは、「永遠に生きる」という勘違いからはなれ、「50年後に死ぬ」ことをより正確に現実的に捉えるよいきっかけとなるだろう。
苦しみは勘違い(=妄想)から生まれる。現実を正しく捉えることが苦しみを和らげる第一歩である。「1週間後に死ぬ」と仮定すれば、日々悩んでいることのどれほど多くのことが取るに足らないことで、何が自分にとって本当に大事なのか自ずとハッキリする。「1週間後に死ぬ」という想定は大抵の場合現実的ではないが、多くの人はもっと非現実的な勘違い(=永遠に生きる)に捉われて生きている。地位も名誉もいつか必ず朽ち果てるのに、永遠に手に入ると勘違いしてしまうから執着してしまう。お金だって同様だ。お金そのもの、もしくはお金があれば買いたいものは、「1週間後に死ぬ」として、本当に価値あるものだろうか。
「1週間後に死ぬ」と思って毎日を生きれば、今より少しだけ楽に生きられるかもしれない。
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