病識の定義は難しいが、要点をまとめると下記のようになる。
・自分が病気を患っており、感情や思考における問題や困難が、病気のせいであると知っている
・病気を治すために定期的な精神科の受診、もしくは入院が必要であると分かっている
統合失調症患者は、一定の割合で、病識を獲得することができない。
なぜだろうか。
まさに物事を考えたり感じたりする中枢が病気の舞台であり、健康と病気の境、自分と自分以外の境が分からなくなってしまうという症状ゆえ、病識の獲得が難しいのだろう。さらに、統合失調症には歴史的な悪習として、「気狂い」「悪魔」などのイメージがどうしてもあるから、そんなものを自分のものとして受け入れたくないという気持ちは、容易に想像ができる。
また、統合失調症患者の社会的背景として、その症状ゆえ親密な人間関係に乏しく、「基本的に他人は敵で、信用してはいけない」という考えを持っていることも珍しくない。そんな中で突然赤の他人の医師に病気だから薬を飲め、しばらく入院しろなどと言われても、反感が募らないわけがない。
続いて症状としての「自我障害」に話を移す。
主要な症状である「幻聴」は「自我障害」の結果である。
頭の中にはさまざまな思考が常に渦めいているが、健常者はそれが自分の頭の中の自分の声だと分かっているから、平静を保つことができる。しかし統合失調症患者は、それが自分の声だと分からないことがあり、それゆえ突然他人の声が聞こえたり、他人の思考が頭に伝わってくるかのように感じる。不思議なのは、楽しくて愉快な幻聴は殆ど存在しない点である。幻聴は基本的に本人に対し攻撃的で、敵対している。なぜだろうか。
言語を発しない赤ちゃんに統合失調症の診断をつけることは絶対にできない。言語の中にしか統合失調症は存在しない。赤ちゃんは最初は自分の手が自分の手だと分からない。手をぶつけたり、舐めたりする中で、徐々に自分のものだと理解していく。人は発達の過程で、自分とそれ以外というイメージを確立させていく。統合失調症者はそれに失敗したか、もしくは一度は上手くいったが途中から失っていく。
自分とそれ以外のイメージの確立が、根本的に人の安心感・安定感に繋がっているのだろうか。それを失うと心は常に恐怖でいっぱいなのだろうか。穏やかな気持ちは、それ無しでは有り得ないのだろうか。
妄想をしないことが心の安寧に繋がるという考え方は、瞑想の考え方に通ずるところがある。目の前の現実から離れ、自由な思考の世界にどっぷり浸かってしまうと、人は不安と恐怖に貶められる。いやしかし、その不安と恐怖を日々垣間見るから、無機質な目の前の現実の安心感を確認できるのだろうか。映画や小説が面白いのは、自由な思考が与える不安と恐怖のおかげなのだろうか。
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