「自分」という勘違い

精神医学

勘違いに関する話をもう一つ。

どこからどこまでが「自分」か。

足の指の先から頭のつむじまでが「自分」か。

誰かに叩かれて痛みや怒りを感じる部位が「自分」なら、家族や親友の身体も「自分」だ。

テストの点数をみて悲しくなることがあるのなら、点数も「自分」なのだろうか。

玉音放送を聴いて涙するのなら、国家も「自分」か。

「自分」はとてもいい加減な感覚だ。

この身体から地球まで、大きさ形も変幻自在だ。

「自分」という感覚は、苦しみの大きな原因の一つだ。

「自分」と思っているものが傷付けられると人は苦しくなってしまう。

この世界に「自分」と思うものが何もなければ、何も苦しくないだろう。

「自分」の顔、身長、体重、机、パソコン、時計、財布、給料、会社、趣味、マンション、住所、車、バッグ、友達、恋人、家族、・・・。

物心ついた頃にはすでにこの世界は「自分」のもので溢れかえっている。

そして成長とともに「自分」を拡大させ、どんどん大きくなっていく。

社会問題を「自分」ごととして捉えることが求められ、それが出来る人は社会的な責任感がある人と認められるけれど、「自分」ごとが多ければ多いほど、苦しむ原因も増える。

しかし一方で、様々なことを「自分」のこととして捉えるからモチベーションが湧き、生きがいや楽しみが生まれるというのも正しいだろう。「自分」という概念が実はあやふやで、認知次第でいかようにも姿形を変えることを理解したうえで、楽しみや苦しみと向き合うのが良いだろう。

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