死について

精神医学

死について患者さんと議論する機会は多い。「死にたい」と話す患者さんの対応にはいつも悩まされる。衝動的な発言であることが明らかであれば、話を聞くよりも先に死ぬ手段を奪って冷静になるのを待てば良い。投薬や隔離拘束がそれにあたる。冷静になって「生きていたい」と思えるようになれば、特に問題なく話はおわる。難しいのは、冷静に「死にたい」と語る患者さんだ。生まれ育った環境や能力、病気から、冷静に考えてこの人生は辛いことばかりだから「死にたい」と語る人もいる。医療者はどのように向き合うべきか。

個人的には、「死にたい」と思うのは自由だし尊重されるべきだと思う。死ぬより辛いことは間違いなく存在するし、1秒でも早くこの世から消え去りたいと思ってしまう状況というのは存在すると思う。「死にたい」と語る患者さんに対して一様に「死んではいけません」と諭す医療者もいるようだが、それはコミュニケーションの放棄であり患者さんに失礼と思う。しかし、自殺幇助は犯罪であるし、自殺を行動に移すことを容認するというのは医師としてあってはならない。そのジレンマの中で私は、「死」についての議論をする場をたくさん設けることが、重要な仕事だと思っている。

死にたいと語る患者さんや自殺未遂後の患者さんを診察するときは、「死にたいと思うのは自由だし尊重するが、それを行動に移すことは許さないし自殺幇助はもってのほかで、とにかく今は死に関して私と議論をしてほしい」というポジションをとる。私がいくら自殺を禁止したところで、本人が決めてしまえば自殺を遂行してしまう。究極的にはそれは本人の自由であるが、死について議論をして、これまでなかった考え方や捉え方が生まれて、より本人にとって望ましい判断ができれば良いと思う。

10代や20代で死にたいと冷静に語る方も多いが、経験則として、30代以降人生の価値観が大きく変わることも多いと説明する。10年前の自分と今の自分を比較してもらって、そのダイナミックな変化から、10年後の自分の考え方が全く変わっている可能性を示唆する。30代以降では社会適応や価値観の点で大きな変化というのは難しいかもしれないが、まず事実として、自殺は簡単ではないと伝える。残酷ではあるが、自殺を試みた後遺症として、より辛い人生を歩むことになった人が多くいることを伝える。脅しのようになってしまうことは否めないが、事実であり、今より少しでも楽に生きる方法を模索することに頭を使った方が、結果的に辛くないということは大いにあり得ると思う。それを考える能力や余裕がない場合は、相応しい環境調整を行う。

死について考え続けることで生をより鮮やかなものとして捉えようとしている人もいる。それを自覚してやっている人もいれば無意識にやっている人もいる。そういう方とは望むだけ議論の相手をする。

ようやく死へのスタンスが自分なりに確立されてきたが、自己矛盾を感じることも多く、今後も考え続ける必要がある。

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