ヴィパッサナー瞑想③

精神医学

今回は、ヴィパッサナー瞑想の勉強を通して得た、自分なりの考察を記そうと思う。

まず、「苦」に関して。

ブッダは、心の反応はすべて苦であると喝破した。嫌悪という反応が苦であるのはもちろん、心地よいという反応ですら、それが積み重なると渇望となり、結局苦をもたらす。

それでは、そもそも「苦」とはなんであろうか。体の痛みによる苦はわかりやすい。包丁で誤って指を切った時の痛みは、誰もが想像できる。では、心の痛みによる苦はどうか。暴言を吐かれたり、嫌な記憶や不安な将来を想起した時の「苦」は、どのような体験なのだろうか。

ブッダによると、純粋な心の痛みですら、実はその正体は体の痛みであるらしい。緊張すると息が荒くなるように、心と体は密接に結びついている。どんな心の痛みも、普段は意識することが出来ないが、必ず体のいずれかの部位の感覚の変化を伴う。

苦が生まれるまでの過程は、ブッダの主張を簡潔にまとめると、暴言のような体の外のイベントや、記憶やイメージなどの体の内のイベントに心が触れ、それが意味づけされ、好悪の感情が生まれ、渇望や嫌悪に育ち、そして苦となる。多くの場合このような流れが、盲目的に無意識に進んでしまう。体の内外のイベントと心が接触すること自体は避け難いが、それに心が反応し、意味付けされたり好悪の感情が生まれたりさえしなければ、苦は生まれない。心の接触の瞬間に気づき、心の反応を未然に防ぐことが、ブッダの説いた苦から逃れる方法である。

次に、「瞑想」に関して。

ブッダによると、瞑想を続け、心や体の感覚を観察し続けると、「無常・無我」を体験し、一切の苦から解放されるとのことだ。残念ながら私はそこに到達してないが、それでも瞑想の意義は大きいと思っている。

呼吸に気づく瞑想や、体の感覚に気づく瞑想を続けていると、心の痛みを感じた時に、体のいずれかの部位の痛みに同時に気づくことができるようになる。それくらい自分の心や体の感覚に鋭敏(=マインドフル)になると、心が何かに接触する瞬間を捉えることができ、いずれ苦を生み出す心の反応が盲目的に無意識に始まるのを防ぐことができるようになる。

最後に、「本能と理性の対立」という観点からこの「苦の生成と消滅」に関して考察したい。

私は、この苦の生成と消滅の対立は、本能と理性の戦いと言い換えることができると思っている。例えば、忌々しい過去の記憶を、それを思い返すと不快になることが分かりきっているのに、何度も思い出し、不快になった後もそのイメージを追い続けてしまうのはなぜなのか。それは不快を避けたいと思う理性より、不快を作り出して必要な行動に駆り立てようとする本能が、力強く作用しているからである。本能は、私たちの不幸はお構いなしに、快・不快をたくみに操り、動物として必要な行動に駆り立てる。一度ライオンに襲われたことがあるシカは、なんども襲われたシーンを思い返し不快になることで、二度と襲われないように、もしくは襲われてもすぐ逃げられるように備えている。このような動物として必要な行動に駆り立てる仕組みが本能である。しかしこの本能は、ライオンに襲われる心配をして不快になるよりは、ただ幸福になりたいと願う人間にとっては、鬱陶しい存在でもある。一方で理性は、この苦の構造に気づき、苦を消滅させるポテンシャルを持っている。ブッダの方法論は基本的に理性の働きに頼っていると思う。

ブッダの発見は、本当に面白い。学び、考えたいと思わせられるテーマである。

ヴィパッサナー瞑想④
「ヴィパッサナー瞑想の教科書」(バンテ・ヘーネポラ・グナラタナ、徳間書店、2023/5)という本を読了した。ヴィパッサナー瞑想の教科書-マインドフルネス-気づきの瞑想-バンテ・ヘーネポラ・グナラタナ-ebook/dp/B0C6F...

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