本能・不安・幸せに関する考察

精神医学

精神科診療を行なっていると不安や恐怖という感情がいかに人の行動を支配するか痛感させられる。程度の差こそあれ、自分の行動も、ほとんど不安と恐怖、もしくはそれらを避けるための行動として理解できる。

進化心理学の主張を大雑把にまとめると、人は子孫を残すことを唯一の目的として、不安恐怖や報酬に行動を支配されている。目の前のドーナツを我慢すべきなのに食べてしまうことや、恋人の過去に嫉妬することも全部説明がついてしまう。

進化心理学の「し」の字も知らなさそうなスピリチュアルな指導者が、「エゴ」という言葉をよく使うが、この「エゴ」と、進化心理学の主要なテーマである「不安恐怖と報酬」というのはほぼ同義だと、自分は解釈している。

まず、理性は本能の部下である。それは発生学的にも妥当性がある。普段我々は自分の理性で感情をコントロールしている気になっているが、基本的なベースに感情や本能があり、その時の感情や本能が選んだ思考(=理性)が選択されて意識にのぼる。双極性障害や内因性うつ病の患者を見れば一目瞭然で、知的に高い人が、いとも簡単に感情の餌食となる。理性では感情や本能の波はコントロールできない。ここでいう思考の中には過去の記憶や空想・妄想も含まれる。何を頭に浮かべるかは、瞑想経験者なら分かるだろうが、ほとんど自分で制御できない。その時の本能や感情を叶えるために必要なイメージが過去の恐怖体験であればフラッシュバックが、現実では説明がつかなそうであれば妄想が作られ、選択される。なお、どんな人間でも妄想する能力はあるので、統合失調症は「妄想してしまう病気」ではなく、「妄想でしか解釈できない強い感情をたくさん経験する病気」だと思う。ところで、統合失調症患者の妄想が楽しいものより被害的で辛いものが圧倒的に多いのはなぜなのだろう?

一方で、我々が感じる幸せ(ここでは持続性のある満ち足りた感覚のこととする)というのは、感情や本能(不安恐怖や報酬の生みの親)とは離れたところにある、と思う。

いつも不思議であるが、「幸せ」は誰が用意した感覚なのだろうか。本能や感情を遺伝子が必死に世代を超えて紡いでいるのは進化心理学から理解できる。しかしその本能や感情を瞑想や信仰により追い払った先にある「幸せ」は、「どの仕組み」の発露なのだろうか。実は進化や遺伝子とは無縁の無意味なエラーで、遺伝子の檻(本能や感情)から飛び出て目指すべき唯一の目的となりえないだろうか。それとも「幸せ」もまた、進化や遺伝子が巧妙に仕組んだ本能と感情が生み出す幻想妄想なのだろうか。

これらは日々の精神科診療を通して得た仮説である。

臨床を続けることにより、考察を深めていきたい。

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